賃上げ vs 物価 50年史|春闘5.46%でも実質賃金4年連続マイナスの構造
2026年春闘は大手平均5.46%、賃上げ金額は1万9,964円で1976年以降最高。一方で2025年の実質賃金は前年比-1.3%、4年連続マイナス。賃金も物価も動いた50年を、最低賃金・春闘集計・CPI・家賃・教育費の一次データで読み解く。
2026年5月27日、経団連は春闘第1回集計を公表した。大手企業の賃上げ率は5.46%、平均賃上げ金額は1万9,964円。金額ベースで1976年の集計開始以降の最高値だった。同じ週、NHKは東京23区の単身向け新築マンション平均家賃が11万2,500円で過去最高、前年比+12.6%と報じている。総務省統計局の2026年4月分消費者物価指数は、生鮮食品を除く総合(コアCPI)が前年同月比+1.4%。そして厚生労働省・JILPTの集計によれば、2025年通年の実質賃金指数は前年比-1.3%、2022年から数えて4年連続のマイナスだった。
「賃上げ史上最高」と「実質賃金マイナス」が同じ週の見出しに並ぶ。同じ国の労働者と消費者が、賃金統計の上では過去最高水準の伸びを受け取り、家計の体感では物価上昇に追いつけずに目減りしている。この奇妙な並立は、ここ数年の日本経済の最も特徴的な構図と言ってよい。50年の長いスパンで見れば、それは「賃金も物価も走った1970年代」と「両方が止まった1990-2020年代」と「物価が先に動き始めた2020年代」という三つの時代の継ぎ目で発生した、いわば過渡期の症状である。
この50年で、日本の賃金と物価のあいだに何が起きたのか。最低時給 を主役に、学費 や 家賃、電気 ・ガス ・ガソリン などの物価銘柄の長期データを束ねて読み解いていく。一次ソースは経団連・連合・厚生労働省・総務省統計局・JILPT・文部科学省など、いずれも政府または労使の主要統計に絞った。読み終えたあとに「賃金は上がったのか、上がっていないのか」を自分の言葉で答えられる構図を作ることが、本コラムの目的になる。
5.46%、1976年以降最高 ― 2026年春闘で何が起きたか
2026年5月27日に経団連が公表した春季労使交渉 第1回集計(大手企業)によれば、平均賃上げ率は5.46%、平均賃上げ金額は1万9,964円だった。金額は1976年の集計開始以降で最高水準にあたる。第1回集計は20社規模の速報値で、最終集計は例年6月下旬から7月にかけて出るが、3年連続で5%超えの大台に乗ったこと自体が一つの転換点になっている。発表当日の各社報道はそろって「過去最高」を見出しに置いた。
連合(日本労働組合総連合会)が同年3月23日に公表した第1回集計でも、全体の賃上げ率は5.26%、有額回答が5%を超えるのは3年連続だった。同年4月3日に発表された第3回集計では中小企業の賃上げ率が5.00%と、はじめて中小ベースでも5%台に到達した(時事通信 2026-04-03 / 連合公式)。連合の中小集計は、組合員数300人未満規模の企業を対象とした内訳で、これまで大手との「賃上げ二極化」が常態化していた領域である。その層が5%台に乗ったことは、賃金構造そのものの変化として読まれた。
数字だけを並べると「歴史的水準」だが、ニュアンスはもう少し複雑だ。連合史上の最高水準は1990年の5.95%と1991年の5.66%で、2026年の5.26%(連合ベース)はそこにわずかに届いていない。経団連の率(5.46%)も1990年の5.95%は超えていない。**「率は1990年水準にやや及ばないが、金額は1976年以降最高」**という、賃金水準そのものが昔より高くなった分だけ伸び幅の絶対額が膨らんだ構図である。1990年の5.95%が掛かっていた平均賃金は約30万円台前半、2026年の5.46%が掛かっているのは40万円弱。同じ「5%台」でも、現金額に直すと2026年のほうが大きくなる。
主要企業の春季賃上げ率の長期時系列は、独立行政法人 労働政策研究・研修機構(JILPT)が「主要企業春季賃上げ率」として1956年から公開している(JILPT 図2 主要企業春季賃上げ率)。これと厚労省「民間主要企業春季賃上げ集計」を重ねると、1970年代後半に10%を切り、1990年代後半以降は1〜2%台の低空飛行が20年以上続いた後、2024年に33年ぶりの5%台に乗り、2025年・2026年と3年連続で5%を超えてきた、という大きな波形が見える。波形の形状を一文で表せば「1970年代の山、1990年代以降の谷、2020年代の小ぶりな山」になる。
業種別の動きも整理しておく必要がある。経団連の第1回集計で目立ったのは、製造業の伸びが非製造業をやや上回ったこと、そして金融業が前年比で減速したことだった。製造業は円安効果と海外売上比率の高さが追い風になり、自動車・電機・機械の主要組合がそろって満額回答を引き出した。一方、金融は2025年度の業績伸び鈍化と人員構成の変化(高齢層退職と若手の比率上昇)で、ベース水準としての賃上げ率が抑制ぎみに出る構造になっている。集計の「平均5.46%」の内側に、業種ごとの傾きの違いが入っている。
1970年代の10%超え時代 ― 賃上げのピークは半世紀前にあった
50年史のスタート地点に置くべきは、1974年の春闘である。総評(日本労働組合総評議会)時代の集計で、賃上げ率は32.9%。第一次オイルショック直後の物価急騰に対する労使の総力戦だった。同年の消費者物価指数前年比は+23%前後(総務省「消費者物価指数 長期時系列」)。物価が23%上がるなら賃金は33%上げる、というロジックでギリギリ実質をプラスに保った時代だった。1974年は同時に春闘史上の労使紛争件数のピーク年でもあり、ストライキ参加人員は600万人を超えた。「賃金を上げないと暮らせない」が労働者側の共通認識として明確に成立していた、最後の年だったとも言える。
ガソリン の銘柄ページに記録があるとおり、1974年のレギュラーガソリン年平均小売価格は105円前後で、前年の60円台から約7割上昇している。電気・ガス料金も2年で約2倍。米 の小売価格も1973年から1975年にかけて約1.5倍に動いた。物価が走り出すと賃金が追いかけ、賃金が上がるとさらに物価が押し上げられる、という典型的な賃金物価スパイラルが1970年代前半の日本で実際に起きていた。経済学の教科書がインフレ期待の自己実現として描く現象が、現実の数字で確認できる時期である。
1975年から1980年代前半にかけては、賃上げ率は徐々に減速して10%前後、後半には5%台へと落ちていく。1980年に7.68%、1985年に5.03%、1989年に5.17%。物価上昇率も同時に鈍化していったため、実質賃金指数は1970年代後半から1980年代にかけてジリジリと上昇した。OECDの長期賃金統計でも、日本の実質賃金が他のG7と肩を並べていた最後の局面が1980年代後半にあたる。1980年代後半のバブル期には、賃金上昇は穏やかでもマンション や株式といった資産価格が暴走し、家計の体感は名目給与の数字を超えて豊かになっていく時期だった。「賃金より資産価格が先に動く」状態が定着するのは、実はこの時期からである。
ビッグマック のように国際比較が容易な銘柄で見ると、1980年代の日本は世界最高水準の購買力を持っていた。1989年のビッグマック価格は370円、当時の為替レートで換算するとアメリカ価格(2.02ドル)の約1.4倍。賃金で割った労働時間で見ても、日本のサラリーマンがビッグマック1個を稼ぐ時間は世界で最も短い部類だった。これが30年でどう変わったかは後の章で触れる。
ここで重要なのは、**「春闘賃上げ率のピークは半世紀前」**という事実である。2026年の5.46%は1976年以降の金額ベースで最高だが、率の歴史的天井はオイルショック時代に置かれたままだ。それでも金額が最高なのは、ベースとなる賃金水準自体が当時より高いから、という入れ子の構造になっている。1974年に賃上げ率32.9%が掛かっていたベース月収は約7万円台、2026年に5.46%が掛かっているのは約40万円弱。「率」と「額」と「実質購買力」は三つとも別の物語を語る、というのが50年史の最初の教訓である。
失われた30年 ― 1990年代以降の「動かなかった」賃金
1989年に連合(日本労働組合総連合会)が結成され、1990年の春闘賃上げ率は連合史上最高の5.95%、1991年も5.66%。バブル末期の労働需給逼迫を反映した数字だが、これがその後30年の天井になる。1991年12月にバブルが崩壊した時点では、まだ「一時的な調整局面」と受け止められていた。賃上げ率が構造的に1%台へ落ち込み、そこから20年以上戻らなくなることを、当時誰も予想していなかった。
1992年以降、賃上げ率は一段ずつ下りていく。1992年4.95%、1993年3.89%、1994年3.13%、1995年2.83%。1997年の山一證券破綻と消費税5%引き上げを挟んで、1998年には2.66%まで下げる。2002年に1.66%、2003年に1.63%とほぼ1%台に張り付き、そこから2013年の1.80%まで、おおむね1%台後半が10年以上続く。2002年には最低時給 も唯一のマイナス改定(-1円)を経験している。これは中央最低賃金審議会が「経済情勢を勘案して引き下げが妥当」と答申した、戦後唯一のケースだった。
デフレ均衡のなかで、企業は「下げない代わりに上げる理由もない」状態が常態化した。労働組合側も、雇用維持を優先して賃金要求を抑える「成果配分型」春闘へ路線を切り替え、ストライキ件数は激減。1974年に600万人を超えた争議参加者は、2000年代に入ると年間数万人レベルまで縮小した。「春闘という制度そのものが形骸化したのではないか」と論じる経済紙の特集が、2010年前後に繰り返し組まれた時期である。
この30年で動かなかったのは賃金だけではない。「日本だけ動かなかった」事実は国際比較でいっそうはっきりする。JILPT「データブック国際労働比較2024」がOECD.Stat等を加工した名目賃金指数(1991=100)を見ると、2021年時点で日本は101.4、アメリカは269.0、韓国はおよそ500(JILPT データブック国際労働比較2024 PDF)。同じ30年で、アメリカは2.7倍、韓国は5倍に賃金を伸ばし、日本だけがほぼ横ばいだった。OECD加盟38カ国のなかで、1991-2021年の名目賃金伸び率の下位グループに日本が入る、というのは2010年代後半の国際労働機関(ILO)のレポートでも繰り返し指摘されてきた。
物価も同じ向きで動いた。うまい棒 は1979年の発売から2022年まで43年間10円のまま、ラーメン や 牛丼 も2000年代半ばまでは数十円の幅で微増を繰り返しただけだった。米 もコシヒカリ5kgベースで1990年代から2010年代まで大きな変動はなく、首都圏の家賃 も長期的には横ばいに近かった。コンビニの定番商品、ファストフードのセット価格、自販機の缶コーヒー、いずれもこの時期の日本では「年単位で変わらない」のが当たり前の感覚だった。
国際比較でこの異常さがわかりやすいのはビッグマック である。1990年に日本のビッグマックは370円前後、当時の為替(1ドル=145円)で2.55ドル。アメリカ価格(2.20ドル)を上回っていた。それが2020年代に入ると、円建て価格は400円台に据え置かれたまま、ドル建てではアメリカ(約5ドル)の半分以下に沈む。同じ商品が、同じ会社の同じレシピで作られているにもかかわらず、為替と賃金の動きの差だけで世界最低水準の購買力を示すようになった。「日本だけ動かなかった」を一枚の写真にしたような銘柄である。
「賃金は動かないが、物価も動かないから生活はなんとかなる」というのが、1995年から2020年頃まで続いた日本のデフレ均衡の正体である。30年は人の労働生活のほぼ全期間に等しい。新卒で入社した社員が定年を迎えるまで、賃金水準も物価水準もほとんど変わらない国というのは、世界的に見ても極めて珍しい状態だった。問題は、この均衡が2022年以降に片側だけ崩れたことだった。物価が先に動き、賃金が遅れて追いかける構図は、1974年のスパイラルとは別物の、もっとぎこちない反応だった。
別の側面として、この30年の「動かなさ」は労働市場の二極化を進めた。終身雇用を前提とした正社員層の賃金が動かない一方で、1990年代後半から増えた非正規雇用層は、最低賃金の緩やかな伸び以外に上昇要因を持たなかった。総務省「就業構造基本調査」によれば、非正規比率は1990年の約20%から2020年の約37%まで一貫して上昇。賃金が動かなかったのは「正社員の春闘ベース賃上げが1〜2%台に張り付いていた」だけでなく、「より低い賃金水準の労働者比率が膨らんでいた」二重の要因が働いていた。マクロの平均賃金が下振れする圧力は、春闘の数字だけでは見えにくいところに溜まっていた。
労使関係の言葉の使われ方も変わった。1970年代の春闘では「賃上げ要求」が中心の語彙だったが、1990年代以降は「ベースアップ凍結」「定期昇給維持」「雇用確保」が交渉のキーワードになる。2008年のリーマンショック後には「ワークシェアリング」「賃下げ容認」さえ議論された。賃金が動かないことが社会的な合意事項になってしまった時期が、確かに存在した。
2023年以降の反転 ― 1,000円超え最低賃金と物価ショック
2023年、最低時給 の全国加重平均は前年から+41円の1,004円に引き上げられ、はじめて1,000円台に乗った。2016年の「ニッポン一億総活躍プラン」で「全国平均1,000円」が政策目標として掲げられてから、7年がかりでの到達だった。2024年は+51円、2025年は+66円と過去最大の上げ幅が続き、2025年度には全47都道府県で最低時給が1,000円を超え、加重平均は1,121円に達した(厚労省「地域別最低賃金の全国一覧」)。1978年の目安制度開始時点での全国加重平均は315円。そこから47年で約3.56倍になった計算で、ペース自体は穏やかだが、直近3年の上げ幅(合計+158円)が過去最速の領域に入っているのが特徴だ。
地域別の動きにも触れておきたい。2025年度の最低時給は東京都が1,226円で全国最高、最も低い県でも1,023円。最高と最低の差は203円で、1990年代に最大400円超だった格差が大きく縮小している。これは中央最低賃金審議会が「目安額」を地域格差を縮める方向で答申し、地方の伸び率を相対的に大きく取った結果だ。沖縄県や秋田県のような最賃下位グループでも、2023年から2025年までの3年間で実額が約20%伸びている。
春闘も連動して動いた。2024年は5.10%で33年ぶりの5%台、2025年も5.10%、2026年は5.46%。3年連続で5%台というのは1990年代初頭以来のことだ。ここで興味深いのは、春闘ベースの賃上げ率の上昇カーブと、最低時給の引き上げ幅の加速カーブが、ほぼ同じタイミングで折り返している点である。労働市場の需給逼迫(人手不足)、政府の賃上げ要請、企業業績の改善という三つの要因が同時に動いた結果だが、要因ごとの寄与度については学界・政府で見解が分かれている。
問題は、賃金が動き出したのとほぼ同じタイミングで、長らく動かなかった物価も走り出したことである。
- 都市ガス料金 は、2020年比で2022年には約+55%。ロシア・ウクライナ戦争に伴う欧州向けLNG価格の高騰が、アジア向けスポット価格を引き上げ、日本の都市ガス会社の原料費調整が時間差で末端価格に反映された
- 電気料金 は、2023年6月に大手電力10社のうち7社が規制料金で2〜4割の値上げを実施。標準家庭で月額千〜数千円の負担増となった
- レギュラーガソリン は2022年から2024年にかけて168〜180円台で推移し、政府が「燃料油価格激変緩和補助金」を継続している状態。補助金がなければ200円超えが現実的だった、というのが資源エネルギー庁の試算だ
- 米 は2024年夏の需給逼迫で店頭価格が前年比+30%以上、いわゆる「令和の米騒動」と呼ばれる事態に。コシヒカリ5kgが3,000円を超える店舗が首都圏で続出した
- 首都圏マンション は2025年に平均価格9,182万円で5年連続の過去最高更新、東京23区では1億円超えが常態化。新築のみならず中古市場でも価格が連動して上昇している
- 食料品全般では、2022年以降に主要食品メーカーが繰り返し値上げを実施。帝国データバンクの集計では2022年の家庭用食品値上げ品目数が2万5千品目超え、2023年は3万品目超えと、過去にない規模だった
2026年4月の総務省 消費者物価指数(2026年4月分PDF / 総務省報道資料)では、生鮮食品を除く総合が前年同月比+1.4%。3カ月連続で2%を割り込んだのは2026年に入ってからの動きで、エネルギー項目が-3.9%と大きく押し下げ要因になっている。これは経産省「電気・ガス料金支援」(2025-12-16 認可)による電気・都市ガスの補助金が2026年1〜3月に再投入された影響で、補助金がなければエネルギー指数は逆方向に効いていた、というのが日経・Bloombergの整理だ(日経 2026-05-21 / Bloomberg 2026-05-21)。
CPIの内訳を細かく見ると、食料が+5%台、教育・教養娯楽が+2%台、家賃が+0.4%(東京都区部)、エネルギーが-3.9%と、項目ごとの動きはバラバラに散らばっている。総合の+1.4%は、上がる項目と下がる項目を平均した数字に過ぎず、家計の支出構成によって体感物価は大きくぶれる。食費比率の高い家計、エネルギー消費の大きな家計、賃貸住宅で新規契約が控えている家計、それぞれが見ているインフレ率は別物である。
賃金は動いた。物価も動いた。だが、両方が動いたときにどちらの動きが大きかったかで、家計の体感はまったく変わってくる。次章ではそれを毎勤統計の数字で確認する。
それでも実質賃金は4年連続マイナス(2022-2025)
JILPT「ビジネス・レーバー・トレンド」2026年4月号は、毎月勤労統計をもとに2025年通年の実質賃金指数が前年比-1.3%だったと整理している(JILPT 2026年4月号)。前年の2024年は-0.2%、2023年は-2.5%、2022年は-0.9%。4年連続のマイナスは、毎勤統計の長期時系列で見ても異例の長さである(伊藤忠総研レポート)。毎月勤労統計は1947年から続く長期統計で、4年連続マイナスは戦後数えても限定的な期間にしか観測されない。1980年代の二度目のオイルショック調整局面と、2014年の消費税8%引き上げ前後の時期がそれにあたるが、2022-2025年の4年連続マイナスは、消費税のような単発ショックではなく継続的な物価上昇に賃金が追い付けない構造的なマイナスだという点で性質が違う。
2026年に入って潮目は変わりつつある。第一生命経済研究所のレポート(2026年1月毎月勤労統計)によれば、1月の実質賃金指数は前年同月比+1.4%で、12月以来のプラス転化。2月以降の動きは厚労省毎月勤労統計 結果の概要で確認できるが、月次でプラスとマイナスを行き来する不安定な状態が続いている。プラス転化は「賃上げが物価上昇を上回り始めた」サインだが、通年でプラスになるには、2026年4月以降の月次データで継続的にプラス圏を維持する必要がある。
ここで読者が抱きやすい疑問が二つある。一つは「春闘で5%上がったなら、なぜ実質賃金は-1.3%なのか」。もう一つは「最低時給が1,121円なら、なぜ家計はまだ苦しいのか」。マクロの集計値と家計の体感のあいだに、明らかな乖離がある。
実質賃金がマイナスに沈み続けた構造的な理由は、整理するとおおむね四つに分かれる。
理由1: 春闘の対象は労働者全体ではない。 春闘の集計対象は連合・経団連加盟の比較的規模の大きい企業の組合員が中心で、毎勤統計が対象とする5人以上の事業所全体に占めるカバレッジは限定的だ。連合加盟の組合員数は2024年時点で約700万人、雇用者総数約6,000万人の1割強にあたる。組合のない中小企業、パート、非正規労働者の賃金は、春闘の数字とは別の経路で動く。連合の中小集計が2026年に5%に乗ったのは大きな一歩だが、組合に入っていない労働者の実態が同じ伸びを示しているとは限らない。総務省「労働力調査」では非正規雇用比率は約37%。この層の賃金が春闘の波に乗り切れない限り、毎勤統計の集計値は春闘ベースの伸び率を下回り続ける。
理由2: 賞与・残業代を含む「現金給与総額」での評価。 毎勤統計の実質賃金は月次の現金給与総額(基本給+所定外給与+特別給与)を CPI で割って算出する。基本給は春闘で上がっても、賞与減や残業代減があると総額は伸びにくい。2025年は企業業績の伸び鈍化で特別給与が抑制された月があり、それが通年マイナスに寄与した。さらに、2024年からの「働き方改革」関連法の残業時間上限の本格施行により、所定外給与が構造的に圧縮されている層もある。月60時間の残業をしていた営業職が月30時間に減ると、基本給は同じでも月収は10〜15%程度減る。これも実質賃金の頭を抑える要因だ。
理由3: 物価上昇率がCPIコアより高い「実感物価」。 2026年4月のコアCPIは+1.4%だが、食料は+5%台、教育費は+2%台、家賃は+0.4%(東京都区部)と項目ごとのばらつきが大きい。生活必需品ほど価格上昇が大きく、家計の体感は公式CPIより高い、というのは生鮮食品を除くCPIを使う以上避けられない構造だ。総務省「家計調査」が公表している「持家を除く実質消費支出」では、エンゲル係数(食費比率)が2024年時点で29%超え、1980年代以来の水準まで戻ってきている。これは食品価格上昇が家計支出に占める比重を引き上げているサインで、家計の体感物価が公式CPIより高くなる構造を裏打ちする。
理由4: 補助金で押し下げているエネルギー価格の不安定さ。 2026年4月のCPIでエネルギーが-3.9%と効いているのは、前述のとおり電気・ガス補助金の効果。補助金の出口が来れば反転する。経産省は2026年7〜9月の追加実施を検討中で、政治判断次第で実質賃金の四半期数字は数十bp単位で動く。補助金は2023年1月開始、その後数次にわたる延長と単価変更を経て現在に至っている。最初の電気代軽減幅は月当たり数千円規模だったが、最新の特例認可ではより小さな単価で運用されており、補助金の効果自体も減衰している。「補助金がなければ実質賃金はもっと厳しい」という事実は、家計支援の必要性と同時に、賃金そのものの伸びがまだ十分でないことの裏返しでもある。
「賃上げで家計が改善した」と言える状態は、実質賃金が安定的にプラス圏に居続けることで初めて成立する。1月のプラス転化はその兆しだが、まだ「分水嶺」の一歩手前にいる、というのが2026年5月時点の整理だ。プラス転化が一過性のものに終わらないかどうかは、2026年下期から2027年にかけての毎月のデータで判定されることになる。
「賃上げで家計が改善」の実感が遠い、もう一つの構造
実質賃金が4年連続マイナスだった四つの理由は、いずれもマクロの数字の話だった。ここに、家計の体感を左右するもう一段下の構造が二つ重なる。CPI集計の外側、あるいはCPIに含まれていても重みが薄い項目が、家計支出の実感を強く揺さぶる。
ひとつは教育費の独立した上昇。日本経済新聞は2026年1月8日付で、令和7年度(2025年度)の私立大学初年度納付金が150万7,647円で過去最高、前年比+2.1%と報じている(日経 2026-01-08)。学費 の銘柄ページの長期推移で見ると、1975年度の私大初年度納付金は約27万8千円。50年で5.4倍に膨らんだ計算で、同じ期間の最低時給の伸び(315円→1,121円で3.56倍)を大きく上回る。賃上げ5%が来年も来年も続いたとしても、子供を私大に通わせる世帯にとっては学費上昇に追いつくのが精一杯、という構造になる(文科省 国立大学と私立大学の授業料等の推移)。
学費の動きには、CPI集計の盲点も絡む。CPIの「教育」項目は授業料・入学金などを月次ベースで均した指数で、家計が実際に直面する「春に一括して払う100万円超の入学金+授業料」のインパクトとは時間軸が違う。年に1回の支出を月割りして見るCPI上の動きは穏やかでも、4月の銀行口座から消える金額は3桁万円。日本学生支援機構の奨学金利用率は大学生の約半数で、卒業時の平均借入残高は300万円超え。「賃上げ5%でも子の学費は別予算」というのが、多くの世帯の体感である。
もうひとつは家賃の構造的上昇。NHKは2026年5月27日、東京23区の単身者向け新築マンション平均家賃が4月時点で11万2,500円、前年同月比+12.6%と報じている(NHK 2026-05-27)。CPI上の「家賃」項目(持家の帰属家賃を含む総合家賃指数)は0%台で動くため、CPI で見ている限り家賃の体感は伝わってこないが、新規契約ベースの実勢家賃は明らかに上昇している。家賃 と マンション の銘柄ページを並べると、賃料・購入価格ともに2020年代に入ってから上向きの傾きが急になっているのが分かる。
CPIが家賃の動きを拾いにくいのは、調査対象が「現在契約中の家賃」中心で、新規契約の動きが反映されるまでに時間差があるためだ。同じ部屋に5年住んでいる人の家賃は変わらないが、引越して新しい部屋を借りる人の家賃は数年で10%以上跳ね上がる。CPIは前者を多く拾い、後者の実勢は遅れて統計に乗る。結果として、若い世代や転居が多い世代が直面している家賃インフレは、公式統計の数字の3〜4倍に達することがある。
賃金が動かなかった30年は、家賃も学費もそれほど派手には動かなかった。賃金が動き始めた数年で、家賃と学費が賃金より速いペースで上がり始めている、というのが家計の体感を悪くしている構造的要因のうち、CPI集計の外側にある二大要因である。これに加えて、医療費・介護費の自己負担増、社会保険料率の段階的引き上げ、所得税の定額減税の終了など、可処分所得を圧迫する制度的要因も背景にある。賃金の名目額が増えても、額面から手取りに落ちる過程で目減りする、というのが2020年代の日本の家計が直面しているもう一段下の現実だ。
加えて、補助金が支えるエネルギー価格には次の出口が控えている。経産省が2025年12月16日に認可した支援は2026年1〜3月分が対象で、2026年7〜9月の追加実施は政治判断を含む検討フェーズ。同じ期間に最低時給の改定(10月発効)も控えており、賃上げと補助金切れがどう交差するかで、2026年下期の実質賃金の見え方が変わる。仮に最低時給がさらに+50円程度上がり、同時に電気・ガス補助金が縮小・終了すると、エネルギーCPIは反転して+5%以上に振れる可能性がある。賃上げの恩恵が補助金の出口でほぼ相殺される、というシナリオも数字の上では成立する。
地域別の家計事情を加味すると、構造はもう一段複雑になる。最低時給1,226円の東京と1,023円の最賃下位県では、同じ「最低時給で1時間働いた賃金」でも実額に2割の差がある。一方、家賃や物価には地域差がある。総務省「小売物価統計調査」では、都道府県別の物価水準指数を10年ごとに更新しているが、最も高い東京と最も低い宮崎では総合物価指数で約10%の開きがある。賃金は地域差が広く、物価は地域差が狭く、その差し引きで実質購買力の地域差は意外と小さくなる、というのが日本の労働市場の特徴だ。「東京で時給1,226円稼ぐ」と「地方で時給1,023円稼ぐ」の体感は、家賃を考慮すると後者のほうが手元に残るというケースも珍しくない。
雇用形態の差も無視できない。フルタイム正社員、契約社員、派遣、パートタイム、フリーランス、副業従事者。それぞれが賃金統計の捕捉のされ方が違い、春闘の恩恵を受ける度合いも違う。総務省「労働力調査」によれば、非正規雇用比率は約37%で、その7割以上が女性、過半数が中高年層。春闘ベースの正社員賃上げ率が5%を超えても、非正規層の時給上昇率はその半分程度に留まるケースが多い。世帯ベースで見ると、片働き正社員世帯と共働き世帯(うち1人が非正規)、ひとり親世帯では、賃上げ環境の恩恵の届き方が大きく違う。「春闘5.46%」というマクロの数字が、どの世帯の体感とも合わない理由のひとつがここにある。
2026年は分水嶺になるか ― Bloomberg風結語
ここまでの数字を「ポジティブ」と「ネガティブ」に分けて並べると、構図ははっきりする。
ポジティブ材料
- 経団連 第1回集計:大手賃上げ率5.46%、金額1万9,964円で1976年以降最高
- 連合 第3回集計:中小も含めて5.00%、全体5.20%台の3年連続5%超え
- 最低時給:2025年度に全47都道府県で1,000円超え、加重平均1,121円
- 実質賃金:2026年1月に前年比+1.4%でプラス転化、3年ぶりの月次プラス局面入り
ネガティブ材料
- 実質賃金:2025年通年-1.3%、2022年から4年連続マイナス
- 国際比較:1991-2021年で名目賃金指数 日本101.4 / アメリカ269.0 / 韓国約500
- 教育費:私立大学初年度納付金 150万7,647円、+2.1%で過去最高
- 家賃:東京23区単身向け 11万2,500円、+12.6%で過去最高
- エネルギー:補助金で2026年4月CPIエネルギー-3.9%、出口リスクが控える
ポジティブとネガティブを横並びに眺めると、どちらかが圧倒的に勝っているわけではないことがわかる。賃金統計は5%台の数字を3年並べ始めた一方で、家計が直面する個別の支出項目(学費・家賃・食料)はそれ以上の速さで動いている。この二つの勝負がどこで折り合うのかは、2026年から2027年にかけての月次データを追わないと見えてこない。
最低時給 は1978年の315円から2025年の1,121円へ約3.6倍、半世紀で約3.5倍の名目の伸びを記録した。同じ50年で、うまい棒 は10円から15円へ1.5倍、ラーメン や 牛丼 は数倍、首都圏マンション は1980年比で約3.7倍、学費 は5.4倍。価格が動かなかった銘柄もあれば、賃金より速く動いた銘柄もある。**「賃金は動いた、物価も動いた、勝負はこれから」**というのが、2026年初夏時点の数字が示す素直な結論だ。
別の角度から言えば、賃金と物価の50年は「同じ向きに動く時期」と「片方だけ動く時期」を繰り返してきた。1970年代は賃金と物価が同じ向きに走り、1990年代から2010年代までは両方が止まり、2022年からは物価が先に動き、2024年からようやく賃金が追随し始めた。この三つ目の局面はまだ続いている。次に何が起こるかは、賃金が物価を追い越して実質をプラスに保てるかどうかにかかっている。
長期の物価と賃金の関係を、もう少し違う角度から見たければ、うまい棒43年史 は「賃金横ばい時代に価格を死守した銘柄」の物語として、首都圏マンション45年史 は「賃金を置き去りにした資産価格」の物語として読める。通貨そのものの価値の変化を扱った ゴールド53年史 や、規制緩和と価格を扱った LCC28年史、47県別の旅行費用を扱った 47県旅行15年史、サービス価格の動きを扱った 温泉旅館2万円の歴史 と並べて読むと、「物価」と一言で括られる動きの内側に複数の別の物語があることが見えてくる。
賃上げと物価は、たまたま同じ週の見出しに並んだのではなく、ここから数年は同じテーブルに並び続ける。2026年の春闘最終集計(経団連最終確報は通常6月下旬〜7月公表)、7〜9月の補助金判断、10月の最低時給改定発効、年末の毎勤統計確報。そのどれかで、4年続いたマイナスがプラスに転じるかどうかが見える。さらに2027年春闘で4年連続5%台を続けられるかどうか、最低時給が将来目標として政府が掲げる「2030年代半ばまでに1,500円」にどのペースで近づくか。賃金と物価の同居は、向こう数年の日本経済のメインテーマであり続ける。
家計の判断は読者自身のものだが、判断の前提となる数字だけは、なるべく一次ソースに当たって自分の目で確かめておくのがよさそうだ。本コラムが引用したURLは、すべて末尾に整理してある。気になる項目があれば、ぜひ自分の家計に近い視点で読み解いてみてほしい。
主な参照ソース
賃上げ・春闘
- 大手賃上げ率5.46%=26年春闘、金額は過去最高―経団連第1回集計(時事通信 2026-05-27)
- 連合|2026年春闘 要求・回答集計
- 連合初回集計、賃上げ率5.26% ―26年春闘(時事通信 2026-03-23)
- 26年春闘、中小賃上げ率5% ―連合・第3回集計(時事通信 2026-04-03)
- JILPT 図2 主要企業春季賃上げ率(1956-2025)
- 厚労省 民間主要企業春季賃上げ集計
実質賃金・毎月勤労統計
- 厚労省 毎月勤労統計調査 結果の概要
- JILPT 2025年実質賃金指数は前年比-1.3%(2026年4月号)
- 第一生命経済研究所 プラス転化した実質賃金(2026年1月)
- 伊藤忠総研 日本経済:毎月勤労統計(2025年)
物価(CPI・エネルギー)
- 総務省統計局 2020年基準消費者物価指数 2026年4月分
- 総務省 報道資料 2026年4月分CPI
- 日経 4月の消費者物価1.4%上昇(2026-05-21)
- Bloomberg 消費者物価上昇率は4年ぶり低水準(2026-05-21)
- 経産省 2026年1-3月電気・ガス料金支援 特例認可(2025-12-16)
家賃・教育費・国際比較
- NHK 4月の単身者向け家賃 東京23区は11万2,500円に 過去最高(2026-05-27)
- 日経 私立大の初年度費用は150万円 25年度(2026-01-08)
- 文科省 国立大学と私立大学の授業料等の推移
- JILPT データブック国際労働比較2024
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